大フェン坑遺跡とは
その昔、農民が大フェン坑で筍を掘っていたときに、骨の骸や陶器、石器などが大量に出土しました。そのため、小さな廟を立て、出土したものをそこに集め祀り奉ったのです。それが大フェン坑遺跡です。
1958年には、台湾の学者である盛清沂も、この廟のおかげで遺跡を発見することが出来たようです。「萬善堂」を中心点に、東西広さ約500メートル、南北縦深さ約350メートルからなっています。
現在、新石器時代に人が生活していた形跡を確認しており、最も早期の文化の1つであると考えられ台湾全島各地にその文化が広く分布していたのでは・・・と考えられています。
大フェン坑遺跡が語るもの
現に台北県政府の文化局は、考古学的調査によると台湾は石器時代にはすでに人が住んでいたと発表していて、三、四百年前には、文字による島民生活が記録されていたことが確認されています。
大フェン坑文化遺跡は、この期間の人類の生計、技術、集落形態、経済貿易と社会構成を理解するうえでの重要な研究資材と証拠という役割を担っています。旧石器時代後期、新石器時代早期、中期、後期、鉄器時代など5つの文化層にまたがった形となっていて、非常に稀なケースであるようなんですね。
最も早くから”南島語族祖先(台湾原住民の祖先)”型文化を判読することが出来たほか、台湾農業の最初の起源地でもあると推測されています。
考古学者の研究と発見によると、当時は狩と漁労で生計を立てていたようです。さらに、野生植物の種子と植物の繊維の採集も行われていたため、恐らく当時はすでに根茎の類などの作物を植えるといった初歩的農業が行われていたと考えられています。
更に重要なのは、台湾北部「平埔族凱達格蘭族(ピンプゥー族ケタガラン族”PingPu Ketagalan”)」の祖先の遺留品から見て、台湾原住民の祖先型文化である可能性が高いということなんですね。
大フェン坑遺跡の今
さて、この大フェン坑遺跡。台北県の里郷観音山半山腰に位置しています。山の上には沢山の果樹、お墓、水田などがあり、遺跡の周囲約16.8ヘクタールは、全て私有地になっています。
そのためか、この遺跡は全台湾で最も観光客の少ない古跡と言っても過言ではないようですよ。
特に今現在、遺跡の上はお墓に埋め尽くされ、清明節(*2)にお墓の掃除に来る以外は、平常時は目だった人の往来はないようです。そもそも多くの人は、八里郷に一級古跡があることも知らず、どこにあるのかも分からないようです。
しかしながら、国際考古学界にとって、今から4700年から7000年前の様子を解明するための貴重なサンプルとして、大フェン坑遺跡は非常に有名な存在なんですね。
七千年前からアジアには発展をとげ、交流が行なわれていたプレ・ヒストリーの文明があったことを証明し、中原大陸(*3)から文明が発展を遂げていったと言う学説を覆すものとして非常に注目されています。尚、大フェン坑遺跡は民国81年1月10日に第一級古跡に指定されています。(所在地は台北県八里郷)
→ *2 清明節: 二十四節気のひとつであり、春分から約15日後で、ほとんどが毎年4月4日または5日になる。 故人を偲び、祖先の墓参りをし、草むしりをして墓を掃除する日である。 そのため、「掃墓節」とも呼ばれたりし、日本のお彼岸と似たようなものである
→ *3 中原大陸: 中国の黄河中流域を中心とした平野地帯を言い、殷(いん)・周など中国古代文明発祥の地で、漢民族にとっての民族発祥の地である。 「中原」は、現在は河南省・山東省・山西省の大部分と、河北省・陝西(せんせい)省の一部等を指す。
ロングステイと歴史探訪
さてさて、いかがでしたか? またまた遺跡のお話となってしまいました。台北県の名勝地カテゴリーとしてお伝えしていると、やはり、遺跡とか古跡を頻繁に紹介する結果となっておりますね。
これだけ頻繁だと、遺跡や古跡などってかなりの数が点在しているんだろうなーと推測できますよね。そうなると、古跡や遺跡巡りって、ロングステイのように滞在期間が長いロングステイ派だからこそ取り組めるジャンルだといえるんですね。
時代を絞り込んだ形で行なうのもいいかもしれません。台湾が好きだから歴史を学ぶ、歴史を知るからさらに台湾が好きになる。まさに、そんな循環にはまり込んでいけそうです。