恒春鎮の代表的な名勝地は
恒春鎮の名勝地として、「恒春古城」と「広寧宮」があります。「恒春古城」は、1874年(中国清朝同治13年、明治7年)に起きた「牡丹社事件」に衝撃を受けた清朝の政府が中国東南海防の重要性に気づく・・・という辺りまでさかのぼります。
当時台湾の南端に全く防御の設備がなかったため、急遽、沈葆禎(しんほてい)を清朝の官職の一つである欽差大臣(きんさだいじん)として台湾に派遣。城を設けるなどの台湾海防や各国の外交事務を任せることになりました。
沈葆禎とは、清朝末”同治中興(1862~1874年)”時の「洋務運動」の重臣の1人であり、後に総理船政大臣及び南洋大臣を歴任した人物でもあります。
「洋務運動」というのは、19世紀後半に清朝の漢人高級官僚らが推進した近代化政策の一つで、欧米 の軍事技術などの導入し、中国の国力強化を図ることにより清朝の衰退を回復させようとした運動の事なんですね。
牡丹社事件と恒春古城
「牡丹社事件」というのは、日本では「台湾出兵」又は「征台の役」とも呼ばれています。この事件は、1874年(中国清朝同治13年、明治7年)に明治政府が3年前に発生した台湾原住民による琉球漁民の殺害を理由に、西郷隆盛の弟である西郷従道を台湾蕃地事務都督として派遣、台湾へ軍事出兵を断行した事件のことです。
事件の発端は、1871年の10月、一艘の琉球宮古島から那覇へ向かう船が台風に遭い、台湾東南部の八瑶湾(今の九棚湾)に漂着。66名の漁民が誤って先住民(現在の台湾原住民パイワン族(排湾族)で高砂族の一種族)の居住エリアに侵入し拘束され、意思疎通がうまくいかず、文化認識などの違いや誤解により集落から逃走したため敵と見なされ、54名が殺害されてしまいました。
イギリスの調停で日本は清国から賠償金を得て和解し、征討軍を引き上げたのでが、「牡丹社事件」は日本が明治維新以来初めて行った海外派兵であり、日中間の近代史上で最初の重要な外交事件でもあるとされています。
現在の恒春古城
「恒春古城」は、清光緒5年(1880年)に完成されてから、百年を超える歴史があるが完成当時の面影を残しており、現在台湾で最も保存状態の良い古城の一つになっており、現在、国家第二級古跡の指定を受けています。
「広寧宮」は、中山路上の恒春古城西門の傍に位置し、恒春古城の城壁と同時に清光緒元年に建てられ、こちらもは百年を超える歴史があります。保存状態もよく、近年、観光客が訪れるべき場所の一つとされています。
サイクリングしたり、車でドライブするのにも適していて、レジャー的な要素も備えているようです。「広寧宮」傍には「猴洞山」まで通じる小路があり、その小路は石牌公園まで到達しています。