移民と淡水福佑宮
淡水福佑宮は、”天上聖母”とも呼ばれている”媽祖”を祀っています。清朝の淡水は、北台湾でもっとも早く開発された港で中国大陸からの移民が台北盆地に入ってくる重要な窓口でした。
淡水の開墾事業が進むに伴い、淡水河流域に徐々に集落や市街が現れ始めました。住民達は様々な廟を建て始め、台湾までの大移動が無事済んだことを感謝し「媽祖」を奉りました。「淡水福佑宮」は、そんな廟の1つなんですね。
早期の台湾移民は、危険な烏水溝(台湾海峡)を渡らなければなりませんでした。台湾海峡は、常に予測不能の天候にさらされ、運が悪ければ桃源郷にたどり着く前に、命を落としかねない・・・
そのため、皆、船に乗る前に地元の媽祖廟に行き台湾に無事たどり着けるように祈りをささげて来るのです。そして、台湾に無事たどり着くことが出来た人々は、媽祖廟を建て感謝の意を表した・・・ということなんですね。
こうして「媽祖」は台湾の民間信仰のなかで最も普遍的な信奉になっていきました。
伝説の中では、媽祖は常に赤い衣装をまとい、海で遭難した船を救助していたそうです。300年のも間、移民が烏水溝を渡る時に安全祈願をする絶好の対象となったんですね。
淡水福佑宮と媽祖信仰
「福佑宮」は清の乾隆47年(1782年)に建てられ始め、嘉慶元年(1796年)に落成しました。 寄贈したのは泉州三邑(晋江、恵安、南安)、同安、安渓興化、永定、そして広東の潮汕、又は嘉應州の客家人士たちでした。
地域の異なる人士の寄付をあつめることができたことは、当時、各地での媽祖に対する信仰心が一致している証だったと言われています。
今日までの200余年の時の流れの中で様々な変化が起こりましたが、淡水で最古の「福佑宮」だけは依然としてオールドストリートに立ち、媽祖はうつむき眼下を渡り行く人々を見つめ、あらゆる旅行客を加護してきたわけですね。
「福佑宮」は清乾隆時代に立てられましたが、日本統治時代に再建されるなど幾度となく改修工事が施されてきました。それでも、伝統の風貌を維持し続けています。
「福佑宮」は、早期の淡水を研究する上での台湾における重要文化財であり、民国74年8月19日に第三級古跡に指定されました。(所在地は台北県淡水鎮民安里中正路200号)