台北地区最古の関帝廟
新荘武聖廟、別名、「関帝廟」と呼ばれています。乾隆25年(1760年)に建立され、当時、淡北地区において最大の武廟でした。その後、咸豊3年(1853年)に新荘で分類械闘(※)が起こり、難を逃れることが出来ず、焼失してしまう結果となってしまいました。
武聖廟が壊れてから9年の長い年月を経て、同治元年(1862年)に、当時、新荘の県丞(=副官)だった郭志緯の寄付などにより、武聖廟が再建されることになり、同治7年(1868年)にようやく完成しました。
他にも民国34年・台湾光復の年に三度目の修繕が行われたり、民国68年にも補修工事が行われたりしました。何度かの改修工事が施され現在に至っていますが、現段階で台北地区最古の関帝廟となっており、慈祐宮、広福宮と並んで、新荘の三大廟のひとつに数えられています。
武聖廟は「門神」という門番の役割を担う神様を要していません。その理由として、「関帝聖君」が、五徳兼備で武芸に長けているということが挙げられるようです。
関帝聖君とは関帝のことを指し、三国史にも登場する武将・関羽を神格化したもので、いかに門神といえども、関帝の前で大刀を振り回すわけにはいかないためとされています。このような文化人類学的な話は興味深いですよね。このようなことについて間近で調査・研究できるのも、ロングステイの魅力の1つですよね。
武聖廟は、民国74年8月19日に第三級古跡に指定されています。(所在地は台北県新荘市興漢里新荘路)
(※)分類械闘: 別名、チャン(さんずいへんに章)時泉分類械闘。18世紀半ばから19世紀末の台湾清治時代に発生した一種の部族間闘争で、新荘武聖廟の焼失の原因となったのは、台湾籍の福建二大漢民族の部族である泉州人とチャン(さんずいへんに章)州人による武装衝突である。闘争の主な原因は、土地の分配や水の権利などの経済利権、及び、寺廟の建設に絡む宗教的要因の意見対立など様々で複雑な理由によるとされる。