紅毛城と台湾
紅毛城は三百六十余年、淡水の河口にて静かに台湾の変遷を見つめつづけ、その歴史は、台湾近代史の縮図といっても過言ではありません。
紅毛城は淡水で最も代表的な建築の1つであり、ここを一通り見て回るのは1冊の台湾史の分厚い辞典を閲覧するのと匹敵するとも言われているんですね。
歴史に関することだけでなく、文化、芸術、建築の分野でも貴重な存在として常に注目されていることでも有名です。紅毛城は現在、台湾内政部により主に管理されています。
「紅毛城」と呼ばれているエリアは、紅毛城の本館、領事官邸、清朝の城門の南門などが含まれていて、紅毛城のメイン・ビルディングや領事館を見ることが出来るだけでなく、オランダ式、イギリス式、中国式の建築様式に触れる事ができます。
紅毛城の歴史は台湾の歴史
紅毛城のもともとの名称は「サン・ドミンゴ(San Domingo)」で、1628年にスペイン人が建造したのものといわれています。
スペインがオランダに1642年に戦争で負けた後は、オランダ人による占領が始まります。当時の台湾人はオランダ人を「紅毛(赤毛)」と呼んでいたことが、「紅毛城」と呼ばれるようになった所以です。
1661年に鄭成功(*1を参照↓)がオランダ人を追い出すことに成功し、主人のいなくなった紅毛城は廃屋となりました。その後、清朝の康熙の時代になり台湾が正式に清朝の領土になってから、紅毛城は再度、淡水の河口の防御の要塞として役割を果たすことになります。
その後、清朝末期の 1856~1860年に、清とイギリス・フランスの連合軍との間に起きたアロー戦争の後に、淡水は開港され、1867年にイギリス人に領事館として紅毛城は貸し出されています。
その時、メイン・ビルリングの東側に領事官邸を建てた事により、紅毛城は再び活気を取り戻し、各国の人士の交流の場となったのです。やはり、この辺りの歴史については、歴史をテーマとしたロングステイ派にとっては、かなり身近な題材となりそうですね。
→*1 鄭成功:中国明代の軍人、政治家で、中国人の父と日本人の母の間に生まれた。清に滅ぼされそうになった明の復興運動のために、敗軍になった後、台湾に渡り抵抗運動の拠点にしようと当時台湾を占領していたオランダ人を追い出し、占拠した人物である。中国において民族英雄である彼は、近松門左衛門の人形浄瑠璃で、後に歌舞伎化された「国性爺合戦」のモデルになっている。
1980年から観光地として
民国61年(1972年)に英国が撤退した後は、オーストラリアそしてアメリカらに管理を委託する形となるなど、様々な国の管理下に置かれましたが、1980年、ようやく正式に台湾の手に戻り、紅毛城園区は台湾国民のレジャーの場となりました。紅毛城は、民国72年12月28日付けで台湾の第一級古跡に指定されています。
建物内部の壁には、歴史の写真や家具などが展示されていて、訪れた観光客に、この古跡保存区の歴史を知ってもらう以外に、早期台湾の対外関係についても理解してもらうという役割も果たしています。観光と台湾史の理解を深める意味でも、ぜひ台湾ロングステイ中に訪れてみたいスポットです。