ロングステイで日本統治時代を垣間見る
新荘文昌祠は県の丞相だった曹汝霖の寄付によって建てられました。当初は新荘路にある慈祐宮の後方にあったとのことですが、光緒元年(1875年)に現在の場所に遷ったようです。
文昌祠の規模は決して大きくはなく、土地面積は893.82平方メートルとなっていますが、それでも元々の規模と比較すると3倍は大きくなっているようです。
光緒11年(1885年)から光緒24年(明治31年、1898年)までの間、しばらく「興直公学校(*1)」として貸し出されていたようです。台湾を日本が統治するようになった当初は継続して漢文教育が進められていましたが、日本が皇民化政策を開始したことによって、その役割が変貌していく歴史をたどったようです。
文昌祠は、民国4年と民国60年に修繕されていますが、今尚古廟の風貌を維持しており、清の時代には台北地区にある5ヶ所の文昌祠(新竹、桃園、板橋、士林と新荘)のなかでは最大規模を誇っていました。民国74年8月19日に第三級古跡に指定されています。(所在地は台北県新荘市文徳里碧江街20号)
(*1)公学校: 日本統治時代の1898年に成立した中央、及び、地方政府の経費によって開設され、台湾人の8歳から14歳未満の児童を対象にした6年間の義務教育を行う機関を指す。
1941年に、「公学校」、「蕃人公学校」や日本人対象の「小学校」は全て「国民学校」と改められ、現在の台湾の「国民小学」の前身となる。 同一時期に、台湾最高統治機関(台湾総督府)は、当時の台湾の実状を踏まえた上、台湾の児童の義務教育を目的にした「公学校」の他に、日本人の児童を対象とした「小学校」及び原住民のための「蕃人公学校」も設置した。