パンダで注目を浴びる動物園
台北市立動物園といえば、中国から贈られたパンダを見ることができる場所として密かに脚光を浴びています。日本からロングステイ、ショートステイにて訪台される方々も、今後何度か耳にする話題になるだろうと思われます。
パンダの公開がスタートする少し前に台湾を訪れましたが、台北の街でパンダのぬいぐるみをあしらったオブジェにちょくちょく遭遇し、パンダ人気を盛り上げようという雰囲気をヒシヒシと感じました。
ということで当サイトでも台湾市立動物園について数回に渡り取り上げることにしました。まず、台北市立動物園の歴史についてお伝えしていこうと思います。
台北市立動物園の歴史は90年以上にさかのぼります。大まかな分け方をするならば、以下の6つに分けることができるようです。
「1914-1945 誕生の時代」
「1946-1969 戦火を浴び再建する時代」
「1970-1985 圓山印象の時代」
「1989-1992 老園の新生の時代」
「1993-2002の 薪火相伝(*1)の時代」
*1 薪火相伝(しんかそうでん)・・・荘子の「養生主篇」に記された理論。指で薪を押し進めなくとも薪は自らを燃やすことによって火は燃え続け途絶える事はないのと同じように、基礎さえしっかりしていれば、作り上げた物は次の世代に引き継がれていくものであるという意味。
動物園の誕生は意外にも・・・
1914年、台湾がまだ日本統治時代にあった頃、日本人である大江氏は、台北市の北部郊外にある圓山に動植物を観賞できるプライベートガーデンを造りました。翌年の1915年に、台湾の日本政府がそれを買い取り、官営動物園に改めたのが始まりです。
当時、展示されていた動物は哺乳類、鳥類、及び爬虫類が主体でしたが、台湾本土の動物がほとんどの割合を占めていました。園内では約20人ほどの人が働いていたようです。
資料によると、開園当時に展示された動物は70種・148頭という記録があり、週末にもなると来園者の数は約800人にものぼり、台北市の人口が僅か17万人程度だった時代において、大変な賑わいを見せていたと言われています。
1944年、台湾全土が戦争状態に入ると各地で空襲が始まりました。空襲でオリが壊れ逃亡すると危険とされる動物の被害を事前に防ぐという大義名分のもと猛獣処分が実施されました。
これにより、動物園の一つの時代が終わりを告げたのでした。戦火は、幸いにも動物舎に大きな被害を及ぼすことはなかったのですが、戦後の動物園は閑散とした状況に陥り、資料によると職員4名、動物は178頭程だったようです。
「台北市立動物園の歴史 Vol-2」へつづく