日本統治時代の花蓮の吉安郷は、多くの日本人の移民の主要な拠点になっていました。早期の吉安郷は阿美族の居住地であり、元の名は「七脚川」と呼ばれてたんですね。
阿美族の言葉で「七脚川」とは、「柴薪(さいしん)=たきぎ、が沢山ある場所」を意味することからもわかるように、日本による統治が始まるまで、吉安郷は阿美族が平穏に生活していました。
最終的に、日本と阿美族人の間に大規模の抗争が起こってしまうが、結局、日本の現代化された軍力によって200余名の阿美族人は、鯉魚潭や台東に遷る事を余儀なくされる事になったそうです。
強制的に遷村された後、阿美族人の残した土地は全て没収され、その土地は移民村の基地となっていきます。
当時、日本からの移民希望者には、家一棟、それから、充分な耕作面積のある畑が与えら、エリア的には、四国の吉野川沿岸から多くの人々が花蓮にやってきたようです。
そのような背景があり、故郷の吉野川にからめ、この地が「吉野」と名付けられたんですね。ちなみに、「吉野」と言う名称は民国37年(1948年)に国民党政府が「吉安」に変えるまで継続して使用されました。
日本統治時代当地、吉野地区は、宮前、清水と草分の3つの日本人移民村に分けられていました。これらの移民村は、現在の慶豊、福興、そして永興の3つの村にあたります。
大正6年(1917年、民国6年)に、花蓮に移民した日本人のほとんどが真言宗だった事も手伝い、心のよりどころを求める形で、川端満二という方が吉安郷に日本の伝統構造形式に従って、木組みの構造方法を主体にした「吉野布教所」を建てたのでした。
それが現在の「吉安郷慶修院」なんですね。
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(「吉安郷慶修院 Vol-2」へつづく)