台湾の第三級古跡である”掃叭石柱遺跡”は、舞鶴台地の旧台9線(台湾東部を縦断する省道)上にあり、その名の通り、石の柱のような形をした大きな遺跡です。
モアイ像とは印象は大分異なりますが、大きな石造物という視点では共有できる部分があるかと思われます。
場所:花蓮県瑞穂郷舞鶴村
石柱は2つあり、一方が高く、もう一方がやや低くなっています。厳密には、高い方の石柱約475センチメートルで、低い方が約399センチメートルです。
この2本の石柱は家の支柱と伝えらていて、遺跡の年代は、新石器時代とされ、今から3千年前後もさかのぼることになります。
この遺跡を最初に発見したのは実は日本人なんです。1925年、大阪の朝日新聞社の報道記者である小泉鉄氏が旅の途中で、石柱を発見したと言われていますね。
その後、続々と日本から学者が調査に訪れたり、報道されたりするような展開となったようで、中でも、特に石柱が注目を集めました。
聞くところによると、当時の考古学者達は基本的な考古調査だけを簡単に済ませし、石柱を日本に送り、日本で詳細な研究や収蔵をしようとしたそうです。
しかしながら、現地の阿美族の人々にとって石柱のあるエリアは神聖、神秘な地と見なしていたため、祟りのようなものを恐れ、誰1人として積極的に石柱を運び出し作業を行おうとする人がいなかったようです。
実際に運搬作業が開始される中、阿美族のお年寄り達から運搬作業中、全員が祈祷の歌を唱えなければならない上、歌を絶対に間違えてはいけないと提言があり、それらを忠実に守る形で作業が進められたようですが・・・
直前のリハーサルではしっかりと覚えていて、スラスラと歌えていた歌詞が、どういうわけか石柱の運搬作業が始まると、誰かしら歌詞を忘れ、石柱も50メートル移動しただけでそれ以上は動かせなかったらしいです。
このような経緯があり、結局、日本の考古学者たちも石柱を日本の持ち帰る事をあきらめざるを得なくなったというわけなんです。おかげで、台湾のこの地に石柱が今もしっかりと現存しているという状況が維持できているんですね。
(「掃叭石柱遺跡 Vol-2」へつづく)