もともとは小さな廟
連雅堂の「台湾通史」によると、清代の康熙25年(1686年)に移民が小さな廟を建て海の神様である媽祖様を祀ったのことがそもそもの始まりです。
そして、余文儀の「続修台湾府志」によると、慈祐宮は清代の雍正7年(1729年)に新荘が台北地区の重要な港になっていたため、貿易関連の有力者、新荘の資産家や民衆らによって故郷の福建省からわざわざ建材を運び入れ、小さかった廟を大廟に建て替え、「天后宮」と命名したようです。
最後に、陳培桂の『淡水庁志」によると、清代の乾隆年間に新荘に大火災が発生し、「天后宮」も消失。乾隆18年(1753年)に建て直され、風水に基づき、火災を防ぐ意味で池も加え、名称を「慈祐宮」に変えたのが現在の「新荘慈祐宮」となっています。
分類械闘を経て分霊
その後、咸豐3年(1853年)に分類械闘という族群間の武力衝突が発生しましたが、最終的に和解し、新荘の「慈祐宮」の媽祖を板橋に分霊することとなり、板橋に「慈恵宮」が建立されたという経緯もあります。
和解の記念を示すため、新莊慈祐宮と板橋慈惠宮の廟の門はお互いに向かい合い、遥かに望み合っているような形となっているようです。
新莊慈祐宮は、乾隆、嘉慶、咸豊、同治、光緒、日本統治時代、光復後も修繕などが施され、現在も第十回目の整備修復工事が行われています。
「媽祖」は航海者の守護神だけでなく、それ以上に新荘人にとって精神上の安全の寄託という役割も担っているようです。それが故に、慈祐宮と新荘人は切っても切り離せない情で繋がっていると言われています。
民国74年8月19日に慈祐宮は、台湾地区の第三級古跡に指定されました。所在地は台北県新荘市栄和里新荘路218号)